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肺結核が変えた音楽人生、福祉活動にも力 平尾昌晃さん

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平尾昌晃さんは、 高校時代から米軍キャンプでプロとして歌うなど、 ジャズやカントリー、 ロカビリーといった外来音楽を吸収していった。 「そこで培った音楽的素養が、 レコード会社が抱える既存の 専属作家の 楽曲とは…
平尾昌晃さんは、高校時代から米軍キャンプでプロとして歌うなど、ジャズやカントリー、ロカビリーといった外来音楽を吸収していった。「そこで培った音楽的素養が、レコード会社が抱える既存の専属作家の楽曲とは一線を画し、1960~70年代に人々の心を震わせる曲を次々と生み出した」と、音楽評論家の北中正和さんは語る。 ロカビリーブームでアイドル歌手として華々しくデビュー。カバー曲だけではヒット競争に勝てないとして、作詞作曲も行い、「ミヨちゃん」を大ヒットさせた。本来なら日本のシンガー・ソングライターの先駆けとして歌謡史に位置づけられたかもしれない。だが、ブームが沈静化した後の時代の変化に乗り切れず、作曲家の道に大胆にかじを切った。 そんな中、病が平尾さんの音楽人生を大きく変えた。68年に肺結核で長野県岡谷市の病院に入院し、長い闘病生活を送った。「ベッドで安静にしていると、天井の節穴が楽譜のオタマジャクシに見えてきた」と過去のインタビューで語っていた。本格的に譜面の書き方を覚えたことで「どんどん曲想が浮かんできた」という。「わたしの城下町」「よこはま・たそがれ」といったヒット曲が生まれたのはこの後だ。 また入院経験で社会貢献の精神も得た。 「看護師さんや医師、患者さん、見舞いに来てくれた人……。色々な人に助けられた。病室で食べた野沢菜の味、いまだに覚えています。あのとき助けられた体験はお金には換えられない」と思い、音楽を通じ福祉に携わる道を歩む決意をしたという。チャリティーゴルフや、「ラブ&ハーモニー基金」を通じた福祉活動の原点はここにあった。 最近も手話とダンスと歌を組み合わせた若手パフォーマンスグループ「ハンドサイン」の存在を知った。中学校などを回り、手話の普及に励む彼らの思いに共感し、プロデュースを買って出た。新レーベルを立ち上げ彼らを支援した。 回り道をしたことで、自らの音楽を深めていった人生だった。(河村能宏) ■平尾昌晃さんの代表曲と主な歌手(敬称略)■ 1966年 「霧の摩周湖」(布施明) 1971年 「よこはま・たそがれ」(五木ひろし) 同 「わたしの城下町」(小柳ルミ子) 1972年 「瀬戸の花嫁」(小柳ルミ子) 1974年 「うそ」(中条きよし) 同 「二人でお酒を」(梓みちよ) 1978年 「カナダからの手紙」(平尾昌晃、畑中葉子) 1979年 「カリフォルニア・コネクション」(「熱中時代・刑事編」主題歌、水谷豊)

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