非自民連立政権で1994年に首相を務めた羽田孜(はた・ つとむ)さんが28日午前7時6分に死去した。 82歳だった。 自民党政権の 宮沢喜一内閣で蔵相、 非自民の 細川護熙内閣の 副総理兼外相を務め、 細川氏の 首相辞任後の 94年4月に首相に就いた。 ただ、 政権発足時に旧社会党が連立離脱して少数与党となり、 自民党の 内閣不信任案提出を受けて総辞職。 首相在任は64日間で、 現憲法下では最短だった。
非自民連立政権で1994年に首相を務めた羽田孜(はた・つとむ)さんが28日午前7時6分に死去した。82歳だった。
自民党政権の宮沢喜一内閣で蔵相、非自民の細川護熙内閣の副総理兼外相を務め、細川氏の首相辞任後の94年4月に首相に就いた。ただ、政権発足時に旧社会党が連立離脱して少数与党となり、自民党の内閣不信任案提出を受けて総辞職。首相在任は64日間で、現憲法下では最短だった。
35年に東京都内で元衆院議員の羽田武嗣郎氏の長男として生まれた。58年に成城大卒業後、小田急バスに入社。69年に父の病気引退で小田急バス課長から衆院旧長野2区に立候補して初当選し、14回連続で当選した。
初当選後は自民党旧田中派に所属。85年に田中角栄元首相を激怒させた創政会(旧竹下派)旗揚げに加わり、橋本龍太郎元首相、小渕恵三元首相、小沢一郎現自由党共同代表らとともに「竹下派七奉行」と呼ばれた。
92年には竹下登元首相ともたもとを分かち羽田派を結成。小沢氏と連携して政治改革推進派のリーダー格となった。93年6月の宮沢内閣への内閣不信任決議案に賛成して自民党を離党。新生党を結成して初代党首となり、93年衆院選で自民党を過半数割れに追い込んだ。
下野後の94年12月の新進党結成に参加したが、96年12月には小沢氏とも別れて太陽党を旗揚げ。98年1月に国民の声、太陽党、フロムファイブの3党で民政党を作り、98年4月結成の旧民主党に参加した。同党最高顧問を務め、2009年衆院選での政権交代を見届け、12年衆院選に立候補せずに政界を引退した。