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北朝鮮の「核放棄」裏切りの歴史 坂東太郎のよく分かる時事用語

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6月12日にシンガポールで開かれる史上初の 「米朝首脳会談」 では、 「非核化」 が主要議題に上がる見込みです。 しかし、 北朝鮮の 核放棄をめぐっては、 これまでも大きく2度の 合意を見ましたが、 最終的にはいずれも…
6月12日にシンガポールで開かれる史上初の「米朝首脳会談」では、「非核化」が主要議題に上がる見込みです。しかし、北朝鮮の核放棄をめぐっては、これまでも大きく2度の合意を見ましたが、最終的にはいずれも北朝鮮の「裏切りの歴史」でした。 1994年の「米朝枠組み合意」 1991年の「ソ連」崩壊で同国が主導していたヨ-ロッパの社会主義陣営(東側)が事実上消滅。すでに経済低迷に苦しんでいた北朝鮮は大きな打撃を受けます。 北朝鮮の「核開発計画」は以前から指摘されていました。93年に北朝鮮が核兵器不拡散条約(NPT)から脱退する意向を表明し(その後保留)、深刻さが一気に増します。核保有5大国以外の保有を認めないNPT体制から抜けるというのは、「保有したい」という意思表示に他ならないのです。 一時は、北朝鮮の核関連施設への限定攻撃なども検討されていたとされる中、94年6月に民主党のカーター元米大統領が訪朝して金日成(キム・イルソン)北朝鮮国家主席と会談し、開発凍結に前向きとも取れる言質を得たとされています。この会談をきっかけに米朝の実務者が協議を重ねた結果が、同年10月の「米朝枠組み合意」につながりました。 その主な内容は、(1)北朝鮮が持つ寧辺(ニョンビョン)の黒鉛減速炉(原子炉)は軍事転用されやすいので、その心配が小さい軽水炉へ転換する、(2)軽水炉は2003年までにアメリカが提供する。それまで原子炉が止まるために発生するエネルギー不足を補うため年間50万トンの石油を供給する、(3)北朝鮮はNPTにとどまり、国際原子力機関 (IAEA) の査察も受ける――など。黒鉛減速炉は、核爆弾の原料となるプルトニウムの生産に適しているとされるので、北朝鮮が開発を凍結するのと引き換えに、アメリカが軽水炉建設を支援するというのが柱です。 しかし米朝の相互不信もあって、計画通りにはいきませんでした。アメリカでは合意から約2週間後に行われた中間選挙で、野党共和党が上下両院で過半数を占めるという、クリントン政権にとって非常に厳しい事態へ陥りました。アメリカは厳格な三権分立で行政府(ホワイトハウス)は法案すら出せません。共和党は概して対北朝鮮強硬派で合意には懐疑的でした。 軽水炉建設は、どの国がいくら費用を分担するかなどの問題もあってなかなか進まず(それでもメドが立つところまではたどり着いた)、したがって石油の供給期間も長引き、共和党の抵抗で予算が確保できなかったり、しばしば遅れたりといった事態が発生します。北朝鮮はいら立ち、1998年頃から「アメリカは信用できない」「独自の原子炉建設を続けるべきだ」という不満が外交筋からもたらされました。それが一層、アメリカの対北朝鮮の不信感を増幅するという悪循環へと陥ります。 そして2002年10月。北朝鮮はケリー米大統領特使にウラン濃縮計画を認める発言をしました。これを契機に石油供給は12月からストップ。北朝鮮は同月、米朝枠組み合意で約束した核関連施設の開発凍結を解除すると発表。さらにIAEAの査察官を国外退去させると通告し、翌年のNPT脱退表明に至ります。その後、いくらかの交渉は行われたものの不調で、合意は瓦解しました。 この「枠組み」が破たんしたのは、合意が条約のような堅牢な仕組みではない、あいまいなものだったことや、94年の中間選挙での民主党の歴史的敗北、2001年に就任した共和党のブッシュ大統領が「北朝鮮政策の包括的見直し」を訴えて厳しい態度に転じた、などが原因に挙げられます。 一方の北朝鮮も、合意の当事者であった金正日(キム・ジョンイル)総書記は当時、合意直前の1994年7月に死去した父の金日成主席から権力を受け継いだばかりで、「遺訓政治」を4年ほど敷いていました。その間に権力基盤を強化したので、言い換えると移行期間での合意は思い通りに進められなかった可能性もあります。 ブッシュ米大統領は2002年1月の一般教書演説で北朝鮮を「悪の枢軸」と非難しています。実際には、このあたりで米朝の信頼関係は断ち切られていたのかもしれません。

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