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敵地で見せたジーコイズム 鹿島、悲願のアジア制覇

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Jリーグの 鹿島が節目の 20冠目の タイトルをアジア王者の 称号で飾った。 10日、 イラン・ テヘランで行われたアジア・ チャンピオンズリーグ(ACL)決勝第2戦で地元の ペルセポリスと0―0で引き分け、 2戦合計2―0で悲願の 初優勝を果たした。 12月12日にアラブ首長国連邦(UAE)で開幕するクラブ・ ワールドカップ(W杯)に晴れてアジア代表…
Jリーグの鹿島が節目の20冠目のタイトルをアジア王者の称号で飾った。10日、イラン・テヘランで行われたアジア・チャンピオンズリーグ(ACL)決勝第2戦で地元のペルセポリスと0―0で引き分け、2戦合計2―0で悲願の初優勝を果たした。12月12日にアラブ首長国連邦(UAE)で開幕するクラブ・ワールドカップ(W杯)に晴れてアジア代表として出場する。 3日の第1戦(カシマ)をレオシルバとセルジーニョのゴールで2―0で折り返した鹿島。10万人と発表された大観衆に囲まれながら引き分けに持ち込んだアウェーゲームは、そのアドバンテージを最大限に生かしたものだった。 鹿島・鈴木(右)はペルセポリスにカウンターの脅威を与え続けた=共同 鹿島にアウェーゴールを1点でも許すと、逆転優勝に4点が必要になるペルセポリスは思い切って体重を前にかけた攻めができない。そんな相手の胸中を見透かしたかのように、鹿島は最前線の鈴木優磨をうまく走らせてカウンターの脅威を与え続けた。警戒心が解けないペルセポリスの攻めは最後まで厚みに欠け、鹿島の堅陣を完全に崩すまでには至らなかった。 これまで鹿島が積み上げた主要タイトルは19。 Jリーグの8回(2位は横浜M、磐田、広島の3回)、リーグカップの6回(2位は東京Vの3回)、天皇杯の5回(2位はG大阪の4回)は、いずれもJクラブの中で最多記録だ(1993年Jリーグ発足以前の記録は除く)。 ゆえに「常勝軍団」の名をほしいままにしてきたわけだが、そんな鹿島の泣きどころが、そのコレクションにアジアのタイトルがないことだった。 ACLの最高成績は2008年のベスト8。16年末のクラブW杯でアジア勢で初めて決勝に進み、欧州王者のレアル・マドリードと五分に渡り合って世界を驚かせたが、これは開催国王者枠というゲタを履かせてもらって出場したもの。そもそもこの年の鹿島は年間3位からチャンピオンシップという制度を利用して2位川崎、1位浦和をのみ込んでリーグ優勝したのだった。 それに比べれば、今度は堂々とアジア王者として胸を張ってクラブW杯に出ることができる。初戦でグアダラハラ(メキシコ)を下せば、準決勝でレアル・マドリードとの再戦が実現する。クリスティアノ・ロナルド(現ユベントス)にハットトリックを食らい、延長戦で2―4で敗れた2年前の雪辱を果たす好機到来となる。 国内で見せるしたたかさとのギャップから、アジアで勝てない鹿島が内弁慶に思えた時期があった。今回のアジア制覇は、そんな面目を一新するものだった。水原(韓国)、上海申花(中国)、シドニーFC(豪州)と同組のグループステージから粘り強く戦い続け、2位で決勝トーナメントに進出。そこから先のベスト16の上海上港戦(1勝1敗)、準決勝の水原戦(1勝1分け)も接戦の連続だった。 しのぎの鹿島を支える力として補強にたけたフロントの眼力がある。それは今回の優勝にもいかんなく発揮された。夏のW杯ロシア大会後、FW金崎夢生が鳥栖へ、CB植田直通がベルギーに去ったが、その穴もブラジル人FWのセルジーニョと韓国代表のCB鄭昇炫が、しっかりと埋めた。韓国の全北時代にACLの優勝経験があり、勝ち上がるコツを知るGK権純泰の能力を十分に引き出す意味でも、連携プレーに言葉の問題がない鄭の獲得は正解だったのではないだろうか。 鹿島というクラブの成り立ちを振り返ると、プロリーグ設立の際に、後にJリーグ初代チェアマンとなる川淵三郎氏から「プロリーグへの参加は99.9999%無理」と言われたところから物語は始まっている。不可能を可能にしたのはサッカー専用スタジアムの建設と、引退していたブラジルのスーパースター、ジーコをチームに招き入れるというチャレンジャー精神にあった。 ACLを初制覇し、トロフィーを手に笑顔の鹿島のテクニカルディレクターを務めるジーコ氏(中央)。左はレオシルバ、右はセルジーニョ=共同 1993年のJリーグ初年度、第1ステージを制したのが大方の予想に反して鹿島だった。そこにはジーコがいた。そして、鹿島の初のアジア制覇に、この夏からテクニカルダイレクター(TD)として古巣に復帰したジーコが立ち会っていることに感慨を覚えずにはいられない。 今回の優勝にジーコTDの御利益がどれくらいあったのか速断できないが、少なくともレオシルバ、セルジーニョという2人のブラジル人選手には相当にらみが効いていたのは確かだろう。それくらい夏以降の2人は神がかったプレー、ゴールの連続だった。 優勝を決めた直後のテレビのインタビューで主将の昌子源は「日本で待っている鹿島ファミリーのためにも優勝したかった」と話した。 「ファミリー」はジーコTDが昔からよく使う言葉でもある。同じミスをカバーするのでも、家族のミスをカバーするとなったら、真剣さが違ってくるだろう。選手同士の関係もそれくらいの深さで考えてほしい。そんな説明を受けたことがある。 ペルセポリスとの2戦もそうだったけれど、勝つときの鹿島は特別なことをするわけではない。 DFとMFとFWが前後左右の互いの距離を気にしつつ、食いついたり、挟み撃ちにしたり、カバーしたりを徹底的に繰り返す。淡泊を嫌い、ねちっこくシュートコースを限定しながら、いよいよとなったら身を投げ出してブロックすることをいとわない。 平凡なこと、基本をひたむきにやる。「ジーコイズム」とは何かというとき、そういう凡事の徹底とサッカー選手としての職業意識とファミリー意識がミックスされたものという気がする。 初のアジア制覇を果たし、優勝カップを掲げたのは大ベテランの小笠原だった=AP 念願のアジアの頂点に立ちながら昌子は「今年は4つのタイトルを狙い、2つ(Jリーグ優勝とルヴァンカップ)を失った」と語った。この貪欲さもクラブに脈々と流れるものだろう。優勝カップを受け取るセレモニーで主将の昌子は、カップを頭上に掲げる名誉を39歳の大ベテラン、小笠原満男に譲った。笑顔の小笠原は、ジーコが住友金属(鹿島の前身)に来たときと、たいして変わらない年齢になっている。 それを見ながら、このクラブは、いつの日か、もっと大きなカップを掲げるのではないかと思った。可能性は0.0001%より、ずっと大きいのではないだろうか。 (編集委員 武智幸徳)

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