「生まれてから一度も難民キャンプを出たことがないんだ。 一生ここにいろと言うの か」 。 ケニア東部にある世界最大規模、 26万人超が生活するダダーブ難民キャンプで、 ソマリア難民の 男性アフメド・ ワルファさん(25)は天を仰いだ。 ほぼ赤道直下の 強烈な日差しと乾いた大地。 サッカー場1万2000個分の 広さに、 木の 枝と土で造った壁にトタン板をかぶせただけの 簡素な住居が密集する。
「生まれてから一度も難民キャンプを出たことがないんだ。一生ここにいろと言うのか」。ケニア東部にある世界最大規模、26万人超が生活するダダーブ難民キャンプで、ソマリア難民の男性アフメド・ワルファさん(25)は天を仰いだ。ほぼ赤道直下の強烈な日差しと乾いた大地。サッカー場1万2000個分の広さに、木の枝と土で造った壁にトタン板をかぶせただけの簡素な住居が密集する。
1991年に始まったソマリア内戦。祖国を逃れた一家はダダーブにたどり着き、7人のきょうだいは長男を除いてここで生まれた。次男のワルファさんは「(ケニアの首都)ナイロビにも行ったことがない」と話す。キャンプから出るには当局の許可が必要。許可証があっても難民の立場は弱く、検問で警官に賄賂を要求されることもあるという。
ワルファさんは自らを「ダダービアン(ダダーブ人)」と呼ぶ。祖国を知らずキャンプで生まれ育った2世、3世を意味する。
ソマリア難民は長く「忘れられた存在」(援助機関者)だった。数百万人規模で発生したシリア難民らの陰に隠れて国際社会の関心は薄れ、援助資金も集まらない状態だ。一家は2010年、紛争国から周辺国に逃れた難民を第三国が受け入れる「第三国定住制度」に申請した。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)が窓口で、昨年8月に審査を通過、3月中に渡米する予定だった。
だが、米国でトランプ政権が誕生して暗転した。ソマリアなどイスラム圏6カ国(当初は7カ国)の国民に対する先月の新たな大統領令は、90日間の入国禁止を維持。難民の受け入れも120日間停止した。米国内で差し止め訴訟が相次ぐが、司法判断は分かれる。
テロが頻発するソマリアに戻るのは危険だが、一方でケニア政府は治安上の理由からキャンプ閉鎖を目指す。八方ふさがりの中で、残された希望が米国などへの移住だった。
ワルファさんが自嘲気味につぶやく。「ひたすら待ち続けるだけの人生さ」。入国禁止令の直撃を受けた難民キャンプは無力感に覆われている。【ダダーブで小泉大士】
木々もまばらな砂漠地帯にあるダダーブ難民キャンプ。「いよいよというときに期待を打ち砕かれた」。四半世紀前にキャンプができたときから暮らすアデン・ジャマ・ディガレさん(50)は表情を曇らせた。
内戦下のソマリアを妻と共に逃れ、7人の子供はキャンプで生まれた。長女(18)が3カ月前に出産し、とうとう3世代目となった。念願の米国への移住が昨年認められ、近くミネソタ州へ出発する予定だった。
食堂でテレビを見ていたカリフ・イスマイルさん(60)にとっても「衝撃だった」。新たな動きはないかと、米CNNをチェックするため毎朝ここへ通う。8歳の息子は先天性の性器異常と診断された。キャンプ内の診療所では治療が難しく、7年前から米移住を希望している。
「そろそろ自分たちの番だ」と思っていただけに入国禁止令は青天のへきれき。国連機関の職員に聞いて回ったが、今後どうなるのか誰も教えてくれない。
難民にとって米国は「人並みの暮らしができる場所」。ここではかなわない教育や医療を受ける機会がある。働いて自活することもできる。米国へ行けたら人生が変わると思っている。
国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると近年、第三国定住でソマリア難民を受け入れるのは14カ国。8割以上の行き先が米国で、2016会計年度は9020人を受け入れた。オバマ前政権は17年度の難民の受け入れ枠を全体で11万人に拡大したが、トランプ政権は5万人に減らす方針だ。
その審査は世界一厳しいとされる。UNHCRなどの事前審査に始まり、米政府職員による面接、健康診断、国土安全保障省による身元調査と続く。イスマイルさんのように「7~10年待っている」という人は多い。大統領令で一時中断し、米連邦最高裁での判断が確定し再開されてもさらなる厳格化は必至だ。
ディガレさん一家は地べたに敷いたマットに身を寄せ合っていた。20年以上も仕事はなく、毎日ただ時間が過ぎるのを待っているだけという。日中は40度近くまで気温が上昇、トタン屋根に直射日光が降り注ぐ。
ソマリア人に対する入国拒否についてディガレさんは「我々にはどうすることもできない。受け入れてもらえるよう神に祈るだけだ」と言う。アダン・バロウ・ハッサンさん(30)も「米国民を恨むつもりはない」。ただ、移住前のオリエンテーションでは「米国は宗教や人種などで人を差別しない」と学んだ。あれは何だったのか、と首をかしげる。
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ソマリアは1990年代初めに中央政府が崩壊し、無政府状態に陥った。米軍は特殊部隊を投入したが、そのヘリコプターを撃墜され、米兵の遺体が引きずり回される映像が世界に衝撃を与えた。凄惨(せいさん)な戦闘の様子は映画「ブラックホーク・ダウン」にも描かれた。
95年に国連部隊が撤退し、内戦が泥沼化する中で台頭したのがイスラム過激派アルシャバブ。国内外でテロを繰り返し、ここ数年は隣国ケニアでもショッピングモールや大学が襲われ、多数が死亡した。
ケニア政府は、国境から西へ約80キロのダダーブ難民キャンプに戦闘員が紛れ込んで「出撃拠点」に利用しているとして、昨年5月に閉鎖を発表。専門家は「明確な証拠がない」とするも、政府高官は難民保護より国内の治安を優先するのが「世界のスタンダード」と主張している。
五つの地区からなるキャンプでの取材で、移動には自動小銃を持った警官4人の護衛がついた。30分近くたつと「長居するな」とせかされた。途中で立ち寄った市場の名は「ボスニアマーケット」。ラクダの肉や野菜を売る店が並ぶ小さな市場だが、数年前に地雷が爆発し多数の死傷者が出たため、こう呼ばれる。
国連のチャーター機が発着する滑走路近くの広場には10台のバスが止まっていた。ケニア、ソマリア両政府とUNHCRが進める帰還事業だ。14年末から約5万人が帰国した。
しかしソマリアの治安はきわめて不安定だ。ナフィソ・モハメド・ヌルさん(42)は15年8月に8人の子供と帰国したが、2カ月後、大統領府近くの自宅に迫撃砲が撃ち込まれた。庭にいた親戚は即死。ヌルさんも左足のかかとと胸、尻に金属片が突き刺さり、5カ月間入院した。買い物に出かけた市場でもマシンガンで目の前の人が撃たれた。「いつどこで襲われるかわからない」。恐怖感に耐えられずキャンプへ戻った。
ある男性(27)は以前、アルシャバブの脅威を描いたドキュメンタリー映画に出演した。動画サイトで公開されると、「殺すぞ」と脅迫電話がかかるようになった。ソマリアには「もう戻れない」。避難先のナイロビで息を潜めて暮らす。
オバマ前政権は難民の強制送還に反対し、ケニア政府もキャンプ閉鎖の先延ばしに応じた。その期限は5月末に迫る。ケニア高裁は2月、閉鎖を無効とする判決を下したが、政府は「ケニア国民が第一」と撤回を拒んで上告した。
シンクタンク「国際危機グループ」(ICG、本部ブリュッセル)のアブドゥル・カリフ研究員は、トランプ氏の大統領令について、ケニア政府などが難民への締め付けを強める「口実に使われる」と指摘。行き場を失った人々がテロや紛争が続く国に帰るしかなくなれば「さらなる悲劇を招くばかりか、過激派組織の格好の勧誘対象になる」と懸念する。【ダダーブで小泉大士】
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