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語り続けた「生き証人」=核兵器廃絶訴え-谷口稜曄さん死去・長崎

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「戦争と原爆被害の 生き証人の 一人として、 その 実相を世界中に語り続ける」 。 30日に十二指腸乳頭部がんで亡くなった日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)の 代表委員、 谷口稜曄さん(88)は癒えることの ない傷を負いながら核兵器廃絶を訴え続けてきた。 ライブハウスで原
「戦争と原爆被害の生き証人の一人として、その実相を世界中に語り続ける」。30日に十二指腸乳頭部がんで亡くなった日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)の代表委員、谷口稜曄さん(88)は癒えることのない傷を負いながら核兵器廃絶を訴え続けてきた。
ライブハウスで原爆講話=被爆3世ら「若者に訴え」-東京・渋谷
1945年8月9日、16歳だった谷口さんは郵便配達の途中、爆心地から1.8キロの長崎市住吉町で被爆した。背中一面に大やけどを負い、生死の境をさまよった。 体には原爆の爪痕が深く残った。背中のやけど痕にたびたび石灰質の塊ができ、激痛に襲われ、取り除く手術を幾度も繰り返した。被爆後、1年9カ月はうつぶせだったため、床ずれを起こし胸は深くえぐられた状態のままになり、肺活量は通常の人の半分程度で、大きな声は出せなかった。 54年ごろ、同じく長崎で被爆した山口仙二さん=2013年に死去=と出会ったのを機に、被爆者援護や核兵器廃絶を求める運動に参加するようになった。当初は運動を陰で支え、人前で被爆体験を話すことはあまりなかったという。 70年に米国国立公文書館で、背中一面のやけどを治療する自分の姿を写したカラー映像が発見されてから、戸惑いながらも運動の先頭に立つようになった。「アメリカではなく、核兵器が憎い。二度と被爆者を生まないために運動してきた」と語っていた。
「本当だったらこの世から去っていた人間。生かされていることに恩返しをしたい」との思いが運動の原動力だった。発足時から参加していた長崎原爆被災者協議会(長崎被災協)では、山口さんの跡を継ぎ06年から会長を務め、10年に日本被団協の代表委員に就任した。 15年の核拡散防止条約(NPT)再検討会議に先立ち訪米し、核兵器廃絶を訴えたが、会議は決裂した。「そんな中でも世界の国々で核兵器廃絶の運動は高まっている」と振り返っていた谷口さん。ノーベル平和賞候補にも挙がっていたが、受賞には至らなかった。 近年、体調を崩しがちで、16年に当時のオバマ米大統領が広島を訪問した際は入院中で面会できなかった。今年7月に核兵器禁止条約が国連で採択された際も入院中で、「一日でも早く核兵器をなくす努力をしてもらいたい」とビデオメッセージを寄せていた。(2017/08/30-14: 25) 関連ニュース
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