Start Japan Japan — in Japanese 突然父を失った女子大生 母がくれたお守りを胸に福祉の道へ

突然父を失った女子大生 母がくれたお守りを胸に福祉の道へ

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2022年は5月8日が母の日。6月19日は父の日だ。親への感謝の思いを、困難な状況で生きる子供たちの支援につなげる毎日新聞の「母の日・父の日募金キャンペーン」。武蔵野大3年の田沢花梨さん(21)に会いに行くと、ぴんと伸びた背筋と、常ににこやかで穏やかな表情が印象的だった。8歳の時に父を自死で失い、一時は学校に通えない時期もあったが、母に支えられて社会福祉士を目指す。
 「常に一番の味方でいてくれた母には感謝しかありません。 …

2022年は5月8日が母の日。6月19日は父の日だ。親への感謝の思いを、困難な状況で生きる子供たちの支援につなげる毎日新聞の「母の日・父の日募金キャンペーン」。武蔵野大3年の田沢花梨さん(21)に会いに行くと、ぴんと伸びた背筋と、常ににこやかで穏やかな表情が印象的だった。8歳の時に父を自死で失い、一時は学校に通えない時期もあったが、母に支えられて社会福祉士を目指す。 「常に一番の味方でいてくれた母には感謝しかありません。母のことが大好きです」 中学生の時に体調を崩した。夜眠れず、朝も起きられない症状に悩まされ、うまく学校に通えなくなった。それが高校生になるまで続き、年間十何日と休むこともあった。最初は母も戸惑い、なんとかして朝、田沢さんを起こそうとしたが、起きられなかった。田沢さんはこの時の記憶がない。「何をされても起きられず、昼過ぎや夕方に起きて、気づいたら学校に間に合わない時間でした」。母は複数の病院にも連れて行ってくれたが、目立った効果は出なかった。 「あんなに起こしたのにねえ」などと笑う母。努力でどうにかできるものではないと田沢さんのすべてを受け入れてくれた。だが、うまく起きられない日には、心が不安定になり突然涙が流れることもあった。 「当時も今も母は常に味方でいてくれました」。母は田沢さんを決して怒らなかった。田沢さんは精神的に不安定になると号泣してしまうことがある。そんな時、母は「泣け、泣け」と泣かせてくれる。そして、一緒に話し合ってくれるのだという。 「調子どう?」 「今日はだめだったのね」 決して田沢さんを否定せず、常にそばで見守ってくれるのだ。 「泣け、泣け」という母の記憶の奥には、父親との思い出がある。 「幼かったので細かく覚えていないのですが、楽しかったなあ、優しかったなあという思い出は浮かんできます」。田沢さんが父親の記憶をたどってくれた。田沢さんは仙台市出身。田沢さんが4、5歳から小学1年生ぐらいのころまでは、岩手県にある父方の祖父母宅に遊びに行く際は田沢さんと父の2人で車で出向くことが多かったという。細かい記憶は残っていないものの、「父と2人のドライブの時間が本当に楽しかったことは覚えていますね」と話した。 田沢さんは、車窓から外を眺めるのが好きだった。だから景色があまり変わらない高速道路はあまり好きではなかった。 「もっといろんな景色が見たい」と田沢さんがせがむ。 「いいよ」と父は迷いもなく高速道路を降りて下の道を走ってくれた。 仙台から祖父母宅まで下道を使えば4時間ほどかかる計算だ。 それからも田沢さんがせがむと下道を走ってくれたという。 ある時のこと、フロントガラスに「びちびち」と当たる音が響くほどに強い雨が降っていた。 田沢さんは急にトイレに行きたくなった。 「トイレに行きたい」と訴える田沢さん。コンビニもない田舎道だった。 迷いながら父は一緒にトイレを探してくれた。 「お父さんはいつも一緒でした。よく付き合ってくれてたなあって思いますね。下の道は時間もかかるし、きっと運転も大変だったでしょう」 記憶がよみがえってきたようだ。 「父は私には本当に甘くて、8歳上の兄にはとても怒るのに、私は怒られた記憶が全くないです」。くねくねと曲がりくねった山道を、楽しく眺めながら過ごした父との大切な思い出だ。 家族4人の楽しい思い出もある。 登山やキャンプ、スキーなどのアウトドアに、大型連休の時には出かけ、川でアユのつかみ取りをしたことを覚えている。 田沢さんが通っていた保育園が母の職場の近くだったこともあり、毎日帰りは母と一緒だった。母の通う生け花教室に一緒に行き、そばでお絵かきをして待っていたこともあった。ごく普通の、でも幸せな家族だった。 突然だった。田沢さんが小学3年で8歳の時、父が自死した。「急にいなくなって、急に遺体になって帰ってきた、という記憶しかありません。本当にショックでした」と田沢さん。 田沢さんにはその後1年間の記憶がほとんどない。 「ちょっと帰るの遅くなる」という父親に「分かった」と返したのが最後の会話だったという。 小学1年の時に同居していた祖父が他界していた。「人が亡くなるということは理解していました。ああ、もう会えないんだって」 田沢さんはしばらく頑張って学校に通った。 「母も働かないといけないし、私が学校に通えなくなったらもっと大変だと思って。母も必死でしたので」と母をおもんぱかる。 父の死後、母と繰り返し話した。 「起きたことを変えることはできないし、どうすることもできない」 友達も話をよく聞いてくれた。なんとか暮らしていけたのは、やはり母のおかげだった。 「本当に元気なんです、お母さん。アグレッシブで、いつも私の一番の味方でいてくれます」 当時を思い出しても、笑顔の母しか浮かばないという。子供の前だけだったのかもしれない。父親が他界する前と大きく変わったという印象がないという。 その後も元気に学校に通えていた田沢さんが体調を崩したのは中学入学後だった。 「当時も今も母は常に味方でいてくれました」。母は田沢さんを決して怒らなかったという。「つらい時はなんでも母に相談していました」 なんとか高校を卒業し、その後も大好きな母と一緒に暮らしていたい思いもあった。だが、大学進学を母が応援してくれていたこともあり、遺児を支援する「あしなが育英会」の奨学金を受けて東京の武蔵野大人間科学部社会福祉学科に進学した。 しかし、進学後、新型コロナウイルスの流行で大学の授業がオンラインになった。仙台市の実家に一時的に帰ってみると、祖母の認知症の症状がひどくなっていた。田沢さんは仕事でいない母に代わり日中の相手をすることになった。 田沢さんは、元々は子供に関わる職に就きたいと思っていた。しかし、父を亡くした経験から、「自分とは境遇が違う子供たちに、遺児である自分の経験を押しつけてしまうのではないかと不安になってしまいました」と田沢さん。しばらく迷った末に、祖母への介護経験を思い出し、介護支援ができる職に就きたいと思い、社会福祉士を目指すことにした。 田沢さんが大切にしている母からの手紙がある。上京する日に受け取った手紙だ。見送ったら泣くと思っていた母は、田沢さんに手紙を直接渡さず、居間のテーブルに置いていた。「読むと泣いてしまうので、2回しか読んでいないんです」とはにかむ田沢さんは、「母は、『もう頑張っているんだから』と、頑張ってとは絶対に言わないんです。手紙に、落とし物や壊れ物があったら身代わりになってくれたんだと思いなさいなどと書いてあり、困った時に読むためのお守りとして渡してくれました」。 定年退職した母。趣味であった山に関わりたいと、今は山の管理をする仕事をしているという。田沢さんと母は、今でも野鳥観察をしに行ったり、映画を見に行ったりとずっと仲がいい。「子供2人残されて、お母さんは大変だったと思う。それでも、私がつらい時はいつも一番の味方でいてくれた。支えてくれて本当にありがとう。これからも楽しく一緒に生きていこう」 現金書留は〒100―8051(住所不要)、郵便振替は00120・0・76498。いずれも毎日新聞東京社会事業団「母の日・父の日募金」係まで。紙面掲載で「匿名希望」の方はその旨を明記。可能ならメッセージを添えてください。 ◇ 昨年は275万2739円が寄せられ、次の団体に贈呈しました。ご協力ありがとうございました。 あしなが育英会▽交通遺児等を支援する会▽アフターケア相談所「ゆずりは」▽フェアスタートサポート▽日向ぼっこ▽学生支援ハウスようこそ▽CVV(社会的養護の当事者支援団体)▽子どもセンターぬっく▽チャイルド・リソース・センター▽青少年の自立を支える福岡の会(順不同) ・いのちの電話 0570-783-556=ナビダイヤル。午前10時~午後10時。 0120-783-556=フリーダイヤル。午後4時~同9時。毎月10日は午前8時~11日午前8時、IP電話は03-6634-7830(有料)まで。 ・日本いのちの電話連盟 https://www.

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